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住職のつぶやき

「ぼーっと」してみませんか?

2019年4月24日 (水)

 ディフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という言葉があります。
これは人間の脳の状態を現し、脳の広い領域が一斉に活動している状態を表します。  
人は日常の生活の中で、何かに「ひらめく」時があります。
たとえば仕事や学習上の問題、あるいは人間関係などのさまざまな悩みがひらめきによって、
理解できたり解決策が見つかったりします。  
 このようなひらめきが発生するのがDMNという状態であることが脳神経科学によって分かっています。  
ところで、このDMNの状態、実は人が「ぼーっと」しているときの状態なのだそうです。
そう言われてみると、私自身、何かがひらめくのは、散歩をしているときとか、草むしり、あるいは車の運転中など、
あまりその作業自体に神経を集中する必要のないときです。  
 ですから皆さん、時には「ぼーっと」しましょう。えっ、チコちゃんに叱られるですって。それじゃ、お念仏はいかがですか。  
お念仏をしたからといって、邪念が消え去ったり、無我の境地になるという訳ではありません。
でも、お念仏を称えているときに頭の中をよぎるさまざまな想いの中に、さまざまな「ひらめき」があることも事実です。  
きっと、ひたすらお念仏を称えているときに頭の中はDMNの状態にあるのです。
また、そのとき、人は仏さまから智慧をいただけるのではないでしょうか。

合掌

百万円拾ったら・・・

2019年03月11日 (月)

 道端に百万円の札束が落ちているのを見つけたAさんとBさんの話です。

 Aさんは落とした人のことを心配し、さっそく交番に届けました。お巡りさんから、謝礼についての説明を受けましたが、持ち主の困った顔が目に浮かぶようで、辞退することにしました。
 夕食もすみ一服していると、警察から電話があり、無事にお金が戻ったことを知らされました。さらに、落とした人からも。なんでも、社員の給与にあてるお金だったそうで、相手の感謝の気持ちは電話でも充分に伝わりました。床についたAさんは、ささやかな喜びとともに、安らかな眠りにつきました。
 お金を見つけたBさんは、一瞬ためらいましたが、ニヤリとほくそ笑んで、札束を手にとり、さっそくローンの返済にあてようか、4Kテレビを買おうか、週末は温泉にでかけようかと算段し始めました。ところがうれしさのあまり油断したのでしょうか。背後からせまる原付バイクに気づくのが、ほんのちょっと遅れたのです。「ドロボー」と叫びながらひったくられた札束を追いかけましたが、徒労に終わりました。
 Bさんは布団に潜り込んでも、くやしさと怒りがおさまりません。悶々としながらようやくのことで、浅い眠りにつきました。おそらく、このいらだちは目覚めてもしばらくは続きそうです。
 さて、AさんとBさん、どちらも百万円をいったんは手に取りますが、結局、手許に残らなったという点では同じです。しかし、心のありさまは違っています。どうしてなのでしょう。お釈迦様の教えにそくして説明してみます。
 Aさんは慈悲の心を大切にしています。慈悲は相手を思いやるやさしさで、その働きは抜苦与楽と表されます。他者の苦しみを取り除き、安らぎを与えるという意味です。その願いがかなったとき、他者とともに、自分の心も安らぎます。
 一方のBさんの心は、煩悩に満たされています。 「貪瞋痴」の三毒がその代表です。「貪」とは欲張りの心です。「瞋」は怒りです。貪と瞋、さらに、自分さえよければいいという我執により、物事のありようを見失なうのが「痴」です。煩悩は自分ばかりか、他者の心の平安もそこないます。
 ところで、皆さんは道ばたに百万円が落ちているのを見つけたとき、Aさんになりますか、Bさんですか。えっ、金をひったくられるようなヘマはしないですって。ボーッとして生きてんじゃないよ!チコちゃん、いや、自分の心に聞いてみましょう。
 どうればいいかですって。しっかりとお念仏を称えることです。きっと、聞こえてきます。阿弥陀様の導きの声が。

合掌

If You Were to Find 1 Million Yen...

 This is about Mr. A and Mr. B when they found a million yen packet on the street.
 Mr. A was anxious for the person who dropped the money and so he immediately brought it to the police station. He listened to the officer’s explanation of the customary reward, but he pictured the agonized owner's face and decided to decline the reward.
 When he had eaten dinner, he received a phone call from the police to inform him that money was safely returned to the owner. The person said that the money was for paying employee salaries. The immense feeling of gratitude of the person came across in the phone call. Mr. A sat down on the floor and felt a gentle pleasure; he slept restfully that night.
 Mr. B who found the money hesitated for a moment and smiled to himself. He took the bundle of money and started to think about how to spend it: pay down his loans, buy a 4K television, or maybe go to a hot spring over the weekend. However, he was too happy to be off guard. 
 He noticed a motor scooter chasing after him just a little way away. "Thief," the person shouted, chasing in vain after the stolen bundle of banknotes.
 Even when Mr. B crept into bed, his regret and anger did not go away. With feelings of aggravation, he fell into a light sleep. Perhaps his irritation would go on and off for a while even after he awoke the next morning.
 So both Mr. A and Mr. B found one million yen, and in the end the money in their hands leaves them. But their hearts differ. How does it change things? I will explain the difference according to the teachings of the Buddha.
 Mr. A values having a merciful heart. Mercy is kindness for the other person, and it works by removing suffering and giving joy. When that matter is resolved, then both hearts are contented, the other person’s and your own.
 By contrast, the heart of Mr. B is filled with "Bonno," worldly desires. "Ton-jin-chi" are the three poisons that contribute to Bonno. "Ton" is greediness. "Jin" is anger. Chi" is stupidity that arises from egotism, a concern only for onself, on top of the greediness and anger. Bonno shakes up one's own peace of mind and affects others too, who are around you.
 Anyway, suppose that you were to find a million yen on the street, would you be Mr. A or Mr. B? Aren’t you thinking, “I wouldn't have been so careless with the money.”? “Wake up and don’t live a lazy life!”, Chikochan would say. Let’s listen to Chikochan, no… let’s listen to your own heart.
 What would I do? Why, I would solidly pray the Nenbutsu chant for the Buddha’s mercy. You surely can hear it, the sound of Amida 's guiding voice.

頼りになりますお念仏

2019年02月11日 (月)

 八十過ぎのおばあちゃん、車が運転できなので、町まで出かけるのも大変です。タクシーという手もありますが、出費がかさみます。
 かといって、働きに出ている息子やお嫁さんに頼むのも、よほどのことでもないかぎり気がねします。
 幸い今のところ足が達者で、時折、JRを利用して町まで出かけます。もっとも、外出といえば病院にでかけるぐらいのことで、この日も、おばあちゃんは腰の痛み止めの薬をもらいに町にやってきました。

おばあちゃん: 先生、この腰の痛みなんとかならんやろか?
先生 : ほおゆうても年やでね~。
おばあちゃん: ほんなこといわんと、何か腰の傷みがスカッととれる薬はないんにゃろか?
先生 : ほんな特効薬があったらこっちが教えてほしいくらいや。まあ、ばあちゃんの歳で自分で病院にこれるだけでもよろこびなさらんと ...。
とにかく、せっかく来なさったんやで、いつもの薬だしときましょう。

 八十にもなると、とかく病院では何でも年のせいにされてしまいます。でも、しょうがないですよね。歳には勝てませんから。
 しばらくたったある日のこと。おばあちゃんは畳の縁につまづいて足首を捻挫してしまいました。
 なんとか歩くことはできたので、念のためくだんの先生のところに出かけました。
 レントゲン写真をながめた先生が言いました。「おばあちゃんね、この程度の捻挫なら湿布でもして、ほっとけば直りますよ。わざわざ、病院まで来ならんでも。もっと、ひどかったらしかたないけどね ...。」
 これを聞いたおばあちゃん、思わず声を荒げてしまいました。「先生、そんなこというて、ひどい捻挫やったら病院にこれませんがね!」カッとなるのも無理ありません。「自分で病院にこれるだけでも幸せ」って、先生言ってましたものね。
 正直と言えば正直、でも、ちょっと頼りないような。まあ、そんな先生でも頼るしかありません。
 世の中、情報過多。複雑になりすぎて素人にはわからんことだらけ。自己責任といわれても、自信が持てません。
 だから健康、病気、美容、教育、投資、保険、終活など、テレビ番組大流行。そして必ず登場するのが専門家。
 日本は国民あげての専門家依存症。それじゃ専門家の言うことを聞いていれば幸せになれるかというと、そうでもない。
 なぜか不安はますばかり。
 こんな時代だからこそお忘れなく。古よりご先祖が頼りにしてきたのが、阿弥陀仏。おまかせのお念仏。
 頼りきってのお念仏、おかげさまのお念仏。称えれば、きっと心が安らぎます。

合掌

Relying upon the Nembutsu[prayer for mercy]

 A grandmother of 80-plus years could not drive, so it was difficult to get around town. There is always the taxi, but it costs a lot. Also, she hesitates to ask her son or his wife for a ride unless it's a really big matter, because both of them are busy earning a living.
 Fortunately for now her legs work fine, and occasionally she goes to town using JR. But then, going out for her these days just means a medical appointment. On this day she went out to the hospital to get some medicine for her back pain.

 Grandma: Doctor, this back pain not going away, right?
 Doctor: Well, you are getting older, you know.
 Grandma: Don’t you have any medicine that can make the pain go away all at once, just like that?
 Doctor: If there were anything like that, I do wish you’d tell me about it. Well, you should be happy just being able to come to the hospital on your own... Anyway, you came all this way, so let me get your usual medicine for you.

 At 80 years old, everything can be blamed on getting old. But there’s nothing to do about it, because you do get older, whether you like it or not.
 Something happened a few days later. The grandma stumbled on the edge of the tatami and sprained her ankle. Somehow she was able to walk, so she got herself to the doctor’s just in case.
 The doctor looked at the X-ray and said. "Grandma, when you have a sprain like this, just wrapping it tightly, it will get better; no need to come to the hospital, unless it had been a worse case ...."
 The grandmother heard this and her voice broke unexpectedly. "Doctor, if the sprain were a worse case, then I could not get to the hospital, no matter how bad it is!" No wonder she got upset. The doctor said before, "you should be happy just being able to come to the hospital on your own."
 Well, you could say the doctor was too honest, but you can’t be sure. In the end, though, you’d have to trust him.

 In the world nowadays, there is too much information. It makes life too complicated so that ordinary people get overwhelmed. We’re told to be responsible for ourselves, but we don’t feel confident dealing with everything. On TV shows we are flooded with information about healthcare, illness, beauty, education, investment, insurance, end of life, and so on. And for each topic we get an expert. Japan has an expert syndrome.
 And then if we listen to the experts we should be happy, right; not really. Why is it that our anxiety grows bigger?
 The way things are in the world these days, let’s remember that since ancient times it was the Amida Buddha that our ancestors relied on. Leaving matters in the hands of the Buddha. They totally relied on this. Gratitude for the Nembutsu prayers. It takes away your cares and will surely put your heart at rest.

物心不二(2) 脳と心

2018年11月5日 (水)

 科学も仏教も体と心が結びついているとする点では同じですが、違いもあります。
 心は生死を越えると説く仏教は、どちらかというと心に重きを置きます。-方、科学は体の一部である脳の働きによって心が生じるととらえます。脳あってこその心であって、その逆ではありませんから、科学は脳すなわち体を優先しているといえます。
 科学はドーパミンやアドレナリンなどの脳の中の物質が心の状態を左右するということを発見しました。さらに、そのような脳内物質の分泌を促したり、抑えたりする薬が開発され、心の病の治療に用いられています。一定の効果はあるようですが、薬だけで完治することは難しいようです。
 にせものの薬が、本物とおなじような効果を発揮するというプラセボという現象があります。かなりの効果があるようです。心が体に影響を与えることの証拠です。脳内物質の分泌にしても心の状態の影響を受けるようです。
 そうなると、セロトニンがでるから幸せになるのか、幸せだからセロトニンがでるのか。はたまた、どちらもあるのか。考えると頭が混乱します。おそらく、脳と心、分かれているようでいて一つ。物心不二だからでしょう。
 科学は今以上に発達し、さらに便利な道具が発明され、新らしい技術が開発されようとしています。今後、私たちを取り巻く物の世界は劇的に変化することが予想されています。残念ながら私たちの心はそのことに充分に対応しているとは思われません。
 科学は物をとおして、さまざまなことがらをとらえますが、仏教は心が先です。
 心が乱れていれば、ものごとの見方がみだれ、生き方が乱れます。逆に心を整え、あるがままを見、そのことに即していけば生き方も整います。この自明の理、頭では分かっていても、なかなか実行できません。なぜ、なのでしょうか。仏教はその理由を踏まえ、賢く生きる知恵を私たちに与えてくれます。
 浄土宗が勧める愚鈍念仏も、そのひとつで、誰もが実践できるという点で、とりわけ優れています。念仏は、決して古くさくはありません。物は豊かであるけれども、心が貧相な現代社会にこそ生かされるべきです。

合掌


※ 愚鈍念仏とは他力、つまり自らの思いや計らいを捨てて、阿弥陀仏の救済の力に心身を委ね、ひたすら南無阿弥陀仏と口に称えることです。

物心不二(ぶっしんふじ)

2018年11月9日 (土)

 ものごとを「物」と「心」に分けてとらえることがあります。さて、現代の日本はかつてないほどの
 物質的な豊かさを享受しています。
 新聞、雑誌、ネットなどのメディアはさらに消費者の購買欲をそそろうと華やかな記事や広告を満載します。
 一方でセクハラやパワハラ、いじめ、ヘイトスピーチ、ささいな諍いによる暴力や殺人、オレオレ詐欺や贈収賄、
 倫理を欠いた組織運営など連日のように心の荒びを示す報道がなされます。まるで物が豊かになると、それに連動して心が貧しくなるようにすら見えます。
 はたして、「物」の豊かさと「心」の豊かさは両立しないものなのでしょうか。
 おそらく、急速な科学や産業の発達に目を奪われるあまり、人々の関心が「物」の方にばかり向い、「心」には向きにくいことが、これらが両立しない原因ではないでしょうか。
 仏教には「不二」ということばがあります。対立して違っているように見えることが、実際にはお互いに依存して切り離せない状態にあることを表しています。表と裏、上と下、生と死などいろいろあります。
 仏教は「物」と「心」も不二の関係にあると説きます(物心不二)
 したがって、心のことをとらえるには物について、物のことを考えるときには心について配慮すべきだということになります。
 物の仕組みや働きを解き明かすのに秀でた科学、人々の知恵やたゆまぬ努力によって生み出された発明を、心の豊かさにどう結びつければよいのか。また、物の豊かさを真に生かす心のありようはどうあるべきかが、現在、問われています。
 物の豊かさと心の豊かさを両立すること。これは現代人に課せられた大きな課題です。すべてについてそのままでよいとは、とても思えませんが、人類の祖先が大切に守り育ててきたさまざまな宗教はそのための鍵になると思います。
 ただ、このことの実現は容易ならざる道です。なぜならこれほどまでの物質的豊かさを人類は今までに経験したことがないのですから。 

合掌

日本人は無宗教?

2018年9月15日 (土)

 自分が無宗教であると考える日本人は少なくありません。「バカの壁」という著書で知られる養老孟司さんは、「心の時代」という番組の中で、無宗教の無は、「仏教の説く無」だと述べています。
 「仏教の説く無」とは何でしょう。この場合の無は、何も無いということではありません。般若心経には無という文字が二十一回も使われています。このお経は空という教えを説いていますが、「仏教の説く無」とは空のことです。空は「とらわれない心、こだわらない心」のことだと故薬師寺管主の高田好胤さんは説きます。
 自分が無宗教だと思っている人に考えてほしいことがあります。なぜお墓参りやお宮参りをするのですか。なぜ神仏に手を合わせたり、拝んだりするのですかか。そういうことを一切しないのであれば、あなたは無宗教といえるでしょう。そうでないならあなたは無宗教ではありません。
 こう考えてはどうでしょう。私の心は「仏教の説く無」に支えられている。つまり良いものを良いとし、悪いものは悪いととらえる調和のとれた感性に裏づけられていると。
 ご先祖が育んできた心、すなわち神仏を尊び、おかげに感謝する心をあなたが大切にしており、お寺や神社、また、お墓やお仏壇にお参りするのであれば、それこそがあなたの宗教であり、それは他のどんな宗教にも劣らず洗練されていると自信を持つべきです。

合掌

慈悲の心 田中蓮ちゃんに捧ぐ(2)

2018年6月13日 (水)


 「慈悲」は「仏や菩薩が衆生の苦しみを取り除き、楽を与えること」(抜苦与楽)と辞書にあります。
 ところで、真身観文というお経に「仏心者大慈悲是(仏の心は大慈悲なり)」とあるように、仏さまの慈悲には「大」という文字が添えられています。
 仏さまは「空」の境地に達しておられます。薬師寺の管主であった故高田好胤さんは「かたよらない、こだわらない、とらわれない心。ひろく、ひろく、もっとひろく…これが空のこころなり」と説かれています。仏さまの慈悲の心は「空」だからこそ大きいのです。
 私たちにも慈悲の心が備わっています。ただ、私たちの心は「空」ではありません。むしろ、かたよっています。こだわりがあり、とらわれています。
 自分がどうしたら楽になるか、苦しまないですむかということに、人は腐心しますが、なかなか他者には向かいません。他者に向かってこその慈悲です。
 また、家族や友人など親しい人の抜苦与楽は望みますが、他人には必ずしもそうはなりません。さらに、喧嘩でもしようものなら、抜苦与楽どころか抜楽与苦が、相手にはふさわしいとすら思うのが、人のあさましさです。
 ご法語の中で法然さまは「持つべき慈悲の心をもたず、念仏にも励まないことは、仏教の掟に反している」と、説かれています。
 「他者の苦しみを取り除き、安らぎを与える。」すべてとは言わないまでも、多くの人々がそのよう願い、ふるまうならば、世の中はずいぶんと平和で穏やかになることでしょう。ただ、このことは、言うは易し行うは難しの高邁な理想です。
 だからこそ、お念仏をとなえ阿弥陀さまの大きな慈悲に身をゆだね、小さいながらも慈悲の心を育み、実践する。そんな生き方が、今、求められているのではないでしょうか。

合掌


 Heart of Compassion ? dedicated to Tanaka Ren (2)

 "Compassion" is in the dictionary as "Buddha and Bodhisattvas eliminate the sufferings of sentient beings and put them at ease" (pain gone; ease instead -bakku, yoraku).
 Incidentally, in the sutra called Shinjin Kanmon it is said that “a person with the heart of the Buddha is filled with mercy” (Buddha’s heart is infinite mercy); with the Buddha’s heart the kanji for “big” is included.
 The Buddha attains complete infinity, a shape with no boundaries. The late Buddhist priest at the Yakushi-ji temple preaches, “a heart without bias, without attachments, and not contained. Big, wide, ever greater… this is what the “ku” heart is.” The Buddha’s heart of mercy is “ku” (emptied of all limiting conditions). Exactly for this reason, it is infinite.
 We also have hearts of compassion. However, ours do not extend to the limits of physical reality (ku). Rather, we are limited. We are entangled in our commitments.
 People desire to make things easy for themselves or avoid suffering, but it is hard to extend this concern when it comes to other people. Compassion by definition is something we extend towards others.
 Although we wish for lives free from suffering for family members and close friends, this wish does not necessarily extend to others. Going further, when a fight seems about to erupt and you are caught between forbearance (bakku, yoraku: release pain, supply joy) and vengeance (yoku, batsuraku: hold pain, discard joy), we tend to want to hurt the other person.
 From the sacred texts, Reverend Honen is said to have taught that "not having the required compassionate heart and not encouraging the Nembutsu chant is contrary to the laws of Buddhism."
 "Eliminate the suffering of others and give them peace of mind." Even if not done perfectly, if people were to wish for this and behave like this, then the world would be quite peaceful and pleasant. However, this lofty vision is easier said than done.
 That is why I take up the Nenbutsu chant and rely on the boundless compassion of the Amitabha Buddha. No matter how small, I will nurture this compassion and practice it in my own heart. I wonder if this way of living now is being sought after by others, too.

慈悲の心 田中蓮ちゃんに捧ぐ(1)

2018年2月11日 (日)

 昨年末、三歳の男の子田中蓮ちゃんは、10分ほど用事で父親が車を離れているすきに、忽然と姿を消しました。12月9日、越前市上太田の吉野瀬川に隣接する駐車場でのことです。
 警察や消防、地域の住民の懸命の捜索や家族の悲痛な思いにも関わらず、蓮ちゃんが見つかったのは一ヶ月以上たった1月19日のこと。場所は直線距離にして40kmも離れた福井県坂井市三国町の九頭竜川の河川敷です。
 その間、市内のいたるところにポスターが掲示され、チラシが新聞に折り込まれたり、町内で回覧されたりしたこともあって、大勢の人々が蓮ちゃんとその家族のことを心配する日々が続きました。
 蓮ちゃんが見つかったときの人々の反応はさまざまでした。誘拐などによる生存の可能性に思いを託してしていた人は、一縷の望みが断たれたことに失望の色を隠せませんでした。
 その一方で、たとえ遺体であっても蓮ちゃんが見つかったことに安堵した人も少なくありません。そうでなければ蓮ちゃんの家族は、心の整理がつかず悶々とする日々がいつまでも続いたはずなのですから。
 発見された際の「蓮、ごめん」という父親のことば、「自分の力で出てきてくれたのか」という祖父のことばに心を動かされ、また、涙した人は少なくなかったのではないでしょうか。
 なぜ人々は蓮ちゃんの失踪また発見に、強く心を動かされたのでしょうか。
 「慈悲」ということばがあります。辞書には「仏教用語で、仏や菩薩が衆生の苦しみを取り除き、楽を与えること」(抜苦与楽)とあります。
 仏や菩薩ではない私たちにも慈悲の心は備わっています。だからこそ、多くの人々が蓮ちゃんとその家族の「苦しみを取り除いてあげたい、楽にしてあげたい」(抜苦与楽)との思いが募ったのでしょう。また、その思いが人々を捜索への行動に駆り立て、蓮ちゃんが見つかるようにとの祈りに導いたのです。
 蓮ちゃんの冥福を祈ると共に、忘れてはいけないことがあります。それはせちがらい現代にあっても、私たちが仏さまの子どもであることを蓮ちゃんが気づかせてくれたことです。

合掌


 Hearts of Mercy -Dedicated to Ren Tanaka(1)

 Dedicated to Ren Tanaka (1)

 Last year, three-year-old Tanaka Ren-chan disappeared suddenly when his father left the car unattended for about 10 minutes. It happened in Echizen-city on December 9th at the ?Kami-Ota parking lot near the Yoshinose River.
 In spite of efforts by the police, fire fighters, and local residents, and the distress of the family, it was not until more than a month later, on January 19th, that little Ren was found. The place was near the mouth of the Kuzuryu River in Mikuni, 40 km away, as the crow flies.
 During this time, posters were displayed everywhere in the city, and flyers were put in newspapers to circulate around town. Day after day, so many people were concerned about little Ren and his family.
 People's reactions were varied when little Ren was found. The people who had been thinking about the possibility of survival after kidnapping etc. could not hide their disappointment when this hope was dashed.

 On the other hand, more than a few people were relieved that the body was recovered. Otherwise, his family would not be able to find closure, and the uncertainty in their minds would last forever.

 When the body was discovered, the father's words of "I am sorry, little Ren," and the grandfather’s words of “I wonder if you did all this on your own,” moved people’s hearts. So probably there were more than a few of us who cried.

 What could it be about little Ren’s disappearance and discovery that touched our hearts so deeply, I wonder?
 "Mercy" is one word we have. The dictionary says, "in Buddhist terminology, Buddha and Bodhisattvas relieve the sufferings of sentient beings and put them at ease" (burdens removed; comfort given).
 Even without being Buddha or Bodhisattva, we are also provided with merciful hearts. It is probably for that reason that many people thought about little Ren and his family and wanted to "relieve their suffering; making things go easily for them" (burdens removed; comfort given). In addition, those thoughts inspired people to go on searching, and led to prayers that little Ren might be found.
 As you pray for peace of little Ren’s soul, there is something we cannot forget. It is what little Ren’s brief life has shown about us being the children of Buddha, even in these harsh times we live in.

一向にいきる

2017年12月1日 (金)

 「ウォーキングなんて膝にとって、何ひとついいことないですよ。」と、運動不足が膝痛の原因ではないかと告白した私に、四十代の男性整形外科医はこともなげに言い放った。「体を動かすことは健康に良い」という通念は、加齢による軟骨の摩耗という専門家の見立てのもと、あえなく却下されてしまった。

 考えて見れば、体を動かしすぎて、健康をそこねる人は珍しくはない。はたして、体を動かすから健康なのか、健康だから体が動かせるのか、考えだすと眠れなくなりそうだ。ことによれば世間の常識など、さほどあてにならないのかも知れない。
 「一文不知の愚鈍の身になして、ただ一向に念仏すべし(あれこれせんさくせずに、ひたすらお念仏に励みなさい)」と、法然上人は説く。

 おもしろいことに曹洞宗にも似た教えがある。不立文字(ことばに頼るな)。只管打坐(ひたすら座禅せよ)と、いうのがそうだ。 「一向」、「只管」どちらも「ひたすら」と読むことになっているのを、国語辞典で見つけたときは思わず手を打ちそうになった。

 ことばを使うからこその人間。ことばによって人は他の動物にはないすぐれた能力を手に入れた。そのこととひきかえに、人はことばを使うからこその悩みを抱えることになった。

 さまざまな罪業をお念仏を称えることで消し去ろうというのが佛名会。一年の終わりにあたり、しっかりとお念仏を称え心のリセットを計りたい。

 ところで冒頭のできごとは十年ほど前のこと。二カ月ほど通い、膝に注射をしたり、温めたりした。だが、一向に改善の兆しは見られない。やむなく通院を止め、不自由なままに日々を過ごしたのだが、半年ほど経ったときに、膝の痛みは嘘のように消えていた。

十念




 Depending too much on words

 "There seems to be nothing to help with knee pain for recreational walking," the 40-something male orthopedic specialist replied to my suggestion about lack of exercise being the reason. From his knowledge, he rejected the idea that "exercise is good for your health" when one’s cartilage wears out through aging.

 If you think about it, it is not uncommon for those who exercise to have trouble with their bodies. So you have to wonder if exercise leads to health, or health makes possible exercise. Overthinking this cause-and-effect relationship can keep you awake at night. So in some cases you could say something like plain old common sense does not always hold the answer.

 St. Honen teaches us, 一文不知の愚鈍の身にして、ただ一向に念仏すべし, take a position of complete ignorance and throw yourself totally into the Nenbutsu prayer (don’t look around for answers, just pray the Nenbutsu on your own)."
 Interestingly there is a similar teaching in Soto Zen. Dogen declares 只管打坐, don’t depend on words, just be still (zazen meditating alone is all you need for your truth).

 一向and只管 are pronounced "ikko" and "shikan" respectively, in their Chinese readings, but by using the Japanese reading they both can identically be read "hitasura" (note that all Kanjis have both Chinese reading and Japanese reading). When I saw this, I almost clapped my hands from this unexpected revelation. It came as a sudden recognition of kinship between the terms.

 Using words is what makes us human. They make possible many advanced things not found in other animals. In exchange for this, words also make possible the many troubles that people struggle with.

 "By chanting the Nenbutsu we can cleanse the dirt accumulated in our hearts from many past sinful deeds," the "Butsumyo-kyo," a Buddhist sutra, preaches. That is what we do at the Butsumyo-e, at the close of each year, praying over and over again.
 By the way, what I described at the orthopedist’s was about ten years ago. I went through knee injections and heat therapy for about two months. However, there was no sign of improvement. So I stopped treatments and had to spend my days with stiffness. But after about half a year, my knee pain disappeared into thin air as if it had all been a lie.

花に想う

2017年11月3日 (金)

 秋は花の季節です。私が住職を務める寺の墓地には、秋の彼岸ともなると墓前に供えられた花に、空地に自生した曼珠沙華やケイトウ、さらにはコスモスが彩りを添えます。
 ソバの花をご存じでしょうか。近頃、休耕田に白い可憐な花が群生しているのをよく見かけます。姿に似合わず強烈な香りを発します。肥だめのコヤシのような臭いで、虫を寄せると言われています。
 稲の花を見たことがおありでしょうか。おしべとめしべはあるのですが、自家受粉するため花弁がないそうです。しかも、ほんの一、二時間しか咲いていないので、稲作に従事してでもいない限り、なかなか目にすることはありません。
 実は私も稲の花は見たことがないのですが、スズメノカタビラならあります。イネ科の植物で、草丈がせいぜ10cm程です。稲の花よりもっと地味です。厳冬期と盛夏を除き、所かまわず種の保存にいそしむとてもしぶとい雑草です。草むしりをするものにとっては手強い天敵です。
 人は花に美しさや、あでやかさを感じます。花が咲くことを何か事が成就することに例えることもあります。サクラの花のように華やかさと同時に、一抹の寂しさを漂わせるものもあります。漢字の「花」という文字は、草かんむりの下に「化」、と書きます。つぼみが開花して、やがては散る、つまり「変化する」という意味が文字の中に埋め込まれています。「なるほど」と思います。
 秋は実りの季節でもあります。稲、ソバは言うに及ばす栗やカキ、リンゴなど多種多様な植物が、花が咲いた後に実をつけます。「実り」というと結果、あるいは成果を連想しますが、植物自体にとって「実り」はどういう意味を持つのでしょうか。


 植物の営みを大まかにとらえれば①種が土に落ちる、②発芽する、③根や葉や茎が成長する、④花が咲き受粉する、⑤実がなる(種ができる)という順になるでしょう。これらが因果関係で結ばれていることに、お気づきでしょうか。たとえば②発芽するためには、①種が土に落ちる必要があります。同じように③のためには①と②が、④のために①②③が必要です。ならば⑤実がなることが最終結果であるかといえばはそうではありません。①種が土に落ちるためには⑤実がなる(種ができる)ことが必要です。つまり、それぞれが因果関係でつながる循環の中にあります。

 カーネーションやチューリップは花。稲や栗は種子。リンゴやカキは果肉。白菜や小松菜は葉。ジャガイモや里芋は地下茎。人は植物の営みの一過程を自らのために利用しています。だからといって人間にとって成果と思われるものが、植物にとってもそうかといえばそうではありません。一部だけが大切なのではなく、それぞれの部分がそれぞれに大切なのです。私たち人間だって同じなのではないでしょうか。考えさせられます。

 友人のGuven Peter Witteveenさんの協力を得て英語にしていただきました。
 直訳ではなく自然にして、意味の通じやすい英文になっていると思います。




Thinking about flowers

 Fall is the season of flowers. In the graveyard of the temple where I will serve, the flowers offered at the graves for the autumn equinox will add touches of color to the cosmos, red spider lily, and plumed cockscomb that bloom around the open spaces.
Are you familiar with buckwheat flowers? Around this time of year I often see lots of pretty white flowers filling the fields left to fallow. In spite of their slight appearance, they give off a powerful scent. They say the stink is like slurry fertilizer and this smell attracts the insects.

 Have you ever looked at rice flowers? There are stamens and anthers, but it there seem to be no petals for self-pollinating. And since it blooms for only one or two hours, the only chance to see them is if you are in the paddy working.

 I myself have never actually seen rice blossoms, but I have seen the poa bluegrass flowers. It is a plant in the rice family (gramineae) about 10 cm in height. Its flowers are plainer than those of the rice plant. Except for the dead of winter and the height of summer, it thrives wherever you find it growing. It is a tough opponent for anybody who is weeding.

 People feel beauty and splendor in flowers. We may see the flowering as a goal fulfilled. There are flowers like the cherry blossom that impress us with gorgeous beauty, but at the same time they can make us feel life’s pathos. The character "flower" in kanji is written as "change" under the symbol for “grass.” The buds come into flower and eventually scatter, so "change" is embedded in this character. This way of writing "flower" makes perfect sense.

 Autumn is also a season for harvest. Rice and buckwheat, but also all sorts of fruits, such as chestnuts, persimmons, apples, and so on. The fruits come after the flowers have bloomed. When we say "fruit" we think of the end result or what is produced, but what kind of meaning does "fruit" have from the plants’ point of view?

 If you look at the plant's lifecycle, it goes from (1) the seed falling on the ground, (2) germinating, (3) roots and leaves and stem growing, (4) flowers blooming and pollinating, (5) fruit growing. Do you see how these are connected by causality? For example, in order to germinate ②, the seed must fall to the soil①. In the same way, ① and ② are required for ③, and ①②③ are necessary for ④. If you say that the final result of the lifecycle is the fruit ⑤, that is not exactly true. Before the seeds can fall to the ground①, the seed first must be produced⑤(fruit carries the seeds). In other words, they are all connected in a perfect circle through causality.

 Carnations and tulips are flowers. Rice and chestnuts are seeds. Apples and persimmons are pulp. Chinese cabbage and Japanese mustard spinach are leaves. Potatoes and taro are rhizomes. People use one part of the plant’s lifecycle for their purposes. But what looks to us like the end of the plant’s process may not have the same significance from the plant’s perspective. And so to say that just one part of the plant is valuable is not true; all parts of the process are important.

 In the same way, for us human beings, as well, are not the many parts of the life process connected? It makes you stop and think.

科学は人類を幸福にするか

2017年9月3日 (日)

 孫悟空は天上天下に比類なき暴れ者です。如意棒を振り回し、觔斗雲に乗って傍若無人に振る舞います。
あるとき、自分の能力を誇示しようと、お釈迦様に挑みます。
孫悟空は地の果まで飛んでいきそびえ立つ五本の柱のひとつに、悟空参上と書いて意気揚々とお釈迦様の元へ戻ります。
ところがお釈迦さまは、おまえが行った先はここかと一本の指を差し出します。
結局、孫悟空はお釈迦様の手の平から飛び出すことはできず孫悟空はおのれの非力さを知ることになります。
 脳科学、人工知能、遺伝子操作などの最先端の科学を、マスメディアは人類をさらなる幸福へと導く夢の学問として紹介します。
本当にそうでしょうか。
これらの分野は生命、あるいは精神の問題と関連が深いだけに、下手をすれば人のために作ったはずのアンドロイドやロボット、
あるいはバイオテクノロジーが、人の存在を矮小化し、あげく、その価値を否定するようなことにならないとも限りません。
 もし、科学でもって科学が制御できるなら科学の進歩は人類を幸せに導くことができるでしょう。
しかし、そうでなければ科学以外の何かによって、科学を制御する必要があります。科学を導く何かがなければ、
孫悟空のように科学は暴れ者になってしまいます。私は仏教、すなわちお釈迦様の教えが科学を導くすべになると思うのですが、どうでしょう?

合掌
親縁107号抜粋

 Does science make mankind happy?

 SonGoKu (or Chinese, Sun Wukong, the “Monkey King”) is an unparalleled force in heaven and on earth. Wielding the Wisdom Stick, he acts wildly and rides on a special cloud. Once he wanted to show off his abilities to the Buddha. So he flew to the ends of the earth and got to the top of one of the five pillars to mark “Songoku was here” and then return to the Buddha in triumph.
 However, Buddha replied that he only got as far as this pillar, and held up one of his fingers to see. After all, it was impossible for SonGoKu even to jump out of Buddha's palm, and so he realized his own power was small.
 We learn about the latest research such as brain science, artificial intelligence, genetic manipulation, as the news media introduce technological dreams that will bring further happiness to human beings. But can this really be true? These fields are deeply connected to our lives and mental health. But if these developments go wrong, you will be able to find androids, robots, or biotechnology that overshadow the lives of people, or might deny any value to human life.
 If science can govern the course of developments and uses, then scientific progress will probably lead humanity to happiness. However, if the methods and results of science follow their own logic in disregard for human lives and values, then we need to govern science by something other than science. Without something that stands above science and harnesses it, then it will be much like the case of SonGoKu, something of fierce power that is capable of great harm. I think that Buddhism, that is, the teachings of Buddha, should stand above science, but what do you think?

Offered prayerfully

右あれば左あり

2017年8月3日(木)

 世界的に著名なベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンは蓮の茎を水平に持って聴衆に問いかけます。
 「この蓮の茎には右と左があります。この左半分を切り取ったらどうなりますか。」当然のことながら半分になった蓮の茎にも右と左があります。
 彼は「此あるがゆえに彼あり、彼あるがゆえに此あり」という縁起の法を実例を用いて説いているのです。現在の政治の世界では、相手の粗を探しだし、
 ことさらに言いつのることで、自らの優位を強調して、互いを排斥しようとしているように見えます。
 おそらく、右派が左派を取り除くことができたとしても、きっと新たな対立が生ずるに違いありません。結局、右は左があるから存在し、
 その逆も事実なのです。つまるところ、保守派は革新派に、革新派は保守派に是々非々で歩み寄るしかないのです。
 また、右と左が一致してひとつになること、すなわち、すべての政治家の考えがおなじになることが理想とはいえません。
 違いがあるからこそ進歩もありうるのです。「右あれば左あり、左あれば右あり」違っていて当たり前、違っているからこそありがたい。
 そのことを前提として大らかに生きよと、仏教は説くのです。

合掌
親縁106号抜粋

 For Every Left There Is Also Right

 World famous Vietnamese Zen priest Thich Nhat Hanh holds the stem of a lotus horizontally and asks the listeners, "There is a right and a left on this lotus stem, so what will happen if you cut off this left half?"
 Naturally the lotus stem which is halved still has right and left ends. He is using the example to preach the law of Dependent Origins, "The one thing exists because of the other, and without the one thing then the other also ceases to exist."
 In the current political world, it seems that one party looks for ways to reject the other party by showing their own advantage in relation to the shortcomings of the other party. Even supposing that the right wing can get rid of the left wing, then a new confrontation between the divisions within the right wing will arise.
 After all, the right exists in relation to the left, and vice versa. In the end, the conservatives must innovate, the innovators just have to step closer to the conservatives.
 Also, it is not ideal for the right and the left to be united as one; that is, for the ideas of all politicians to be the same. Only because there is a difference can there be progress. "There is a left if there is a right; there is a right if there is a left." Of course there are differences relative to each other; we should be thankful for differences. Buddhism preaches about living fully without fretting about the small differences in these mutually dependent relationships of left and right.

 Offered prayerfully

住職のつぶやきはじめました。

2017年2月23日(木)

 ホームページをリニューアルしました。
 これから日々のつぶやきを追加させていただきますのでごらんください。
 仏教、つまり釈尊の教えをできるだけ分かりやすく、また、身近なことに関連づけてお届けしたいと思い、住職のつぶやきを始めました。アメリカ人の友人のGuven Peter Witteveenさんに手伝っていただいて、 英文の翻訳も準備しました。

 内容に関するご意見などあればinfo31@daihoji.comにお願いします。また、引用はご自由ですが、先のメールアドレスにご一報いただければ幸いです。

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